「クリーンコア」の実現はなぜ難しいのか?SAPが掲げる理想と現実のギャップ
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【コラム監修者 プロフィール】
クラウドコンサルティング代表取締役 岸仲篤史
新卒でSAPジャパン株式会社に入社。
SAPジャパン在籍中にCOコンサルとして従事したことで、会計コンサルの面白さに目覚め、
大和証券SMBC株式会社 投資銀行部門、新日本有限責任監査法人、アビームコンサルティングにて、
一貫して約10年間、会計金融畑のプロフェッショナルファームにてキャリアを積む。
その後、2017年クラウドコンサルティング株式会社を設立し、SAPフリーランス向けSAP free lanceJobsを運営し、コラムの監修を手掛ける。
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はじめに
SAPは、企業のDX(デジタルトランスフォーメーション)を推進するために「クリーンコア」という方針を掲げています。
クリーンコアとは、SAP S/4HANAの標準機能を最大限活用し、カスタマイズを最小限に抑えることで、将来的なシステムの拡張性や保守性を高める戦略です。
しかし、日本企業では長年の業務プロセスを反映した個別カスタマイズが根付いており、このクリーンコア戦略の実現には多くの課題が伴います。
本記事では、SAPのクリーンコア戦略の概要を説明するとともに、日本国内における適用状況、そしてSAPが掲げる理想と現実のギャップについて解説します。
日本のSAPユーザー企業がこの方針にどう向き合うべきか、実現可能性と課題を探っていきます。
1.SAPのクリーンコア戦略の概要
SAPの「クリーンコア(Clean Core)」戦略は、SAP S/4HANAをはじめとするSAPソリューションを導入・運用する際にカスタマイズを最小限に抑え、標準機能を活用することを推奨する方針です。
この戦略の主な目的は、システムの柔軟性・拡張性の向上と、継続的なアップグレードの容易化にあります。
従来、SAP ERPの導入では、各企業の業務要件に合わせてABAPによる独自カスタマイズが行われることが一般的でした。
しかし、過度なカスタマイズは、アップグレード時の障害要因となり、保守コストの増大を引き起こします。
特に、SAP S/4HANAのクラウド版では、定期的なバージョンアップが必須となるため、クリーンコアを維持することが重要視されています。
SAPは、クリーンコアを実現するための手段として以下を推奨しています。
・拡張機能はSAP BTP(Business Technology Platform)を活用し、本体コードに影響を与えない設計にする。
・SAP標準機能を最大限活用し、カスタマイズの必要性を減らす。
・APIベースの拡張を優先し、カスタムコードをSAP S/4HANA本体から分離する。
この3つの基本方針により、システムの長期的な安定運用と、SAPの技術進化に柔軟に対応できる環境を構築できると考えられています。
2.生成AI活用の必須条件でもあるクリーンコア
クリーンコアは生成AIをSAP環境で活用する上で、ほぼ必須の条件といえます。
その理由は、生成AIがデータの一貫性と拡張性を前提とした高度な処理を行う技術であり、SAPの標準機能やAPIを活用するクリーンコア戦略と親和性が高いためです。
もしクリーンコアを維持せず、システムが過度にカスタマイズされている場合、AIを活用する際に大きな障壁となります。
2-1.データの一貫性と品質の確保
生成AIは、膨大なデータを基に学習し、最適な回答を導き出す仕組みです。
しかし、SAP環境においてカスタマイズが過度に行われている場合、データ構造が企業ごとにバラバラになり、一貫性が損なわれます。
クリーンコアを維持することで、SAPの標準データモデルを活用し、正確なデータに基づいたAI分析が可能になります。
例えば、SAP S/4HANAの標準データ構造をそのまま利用すれば、SAP Business AIがスムーズに機能し、業務プロセスの最適化を促進できます。
2-2.API活用による拡張性の確保
クリーンコアでは、カスタマイズの代わりにSAP BTP(Business Technology Platform)やAPIを活用した拡張が推奨されています。
生成AIをSAP環境に組み込む際には、SAP標準のAIサービス(SAP Business AIなど)や外部AI(Azure OpenAI, Google Vertex AIなど)と連携するAPIを活用するのが一般的です。
しかし、コア部分にカスタマイズが多いと、標準APIの利用が困難になり、生成AIとのスムーズな連携が阻害されます。
クリーンコアを維持することで、AIを活用した業務自動化やデータ分析がスムーズに実装できるようになります。
2-3.アップグレードの容易化
生成AIは、継続的な学習と最新技術の適用が重要なため、SAPの最新バージョンを継続的に適用できる環境が必要です。
クリーンコアを維持すれば、SAPの定期的なアップグレードにも対応しやすく、新しいAI機能や機械学習モデルを迅速に導入できます。
逆に、カスタマイズが多いと、バージョンアップ時に障害が発生し、最新のAI機能が使えなくなる可能性があります。
2-4.AIによる業務自動化の最適化
生成AIは、SAPの標準機能やワークフローを活用することで、業務プロセスの自動化を最大化できます。
例えば、SAPのAI機能を使って請求書処理の自動化や予測分析を行う場合、SAP標準のデータ構造に基づいた運用が前提となります。
クリーンコアを維持していれば、これらのAI機能を追加の開発なしで簡単に導入でき、業務の効率化が進みます。
3.日本国内でSAPのクリーンコア戦略は通用しているのか
SAPのクリーンコア戦略は、グローバルでは一定の支持を得ています。
一方で、日本国内においてはその実現が難しいと言われています。
その主な理由は、日本企業の業務プロセスの複雑さと従来のカスタマイズ文化にあります。
日本の多くの企業では、独自の業務プロセスが根付いており、SAPの標準機能では対応できないケースが少なくありません。
特に、製造業や流通業では、細かい業務ルールや社内ワークフローが厳格に定められており、標準機能だけでの運用が難しいという課題があります。
また、日本企業はスクラッチ開発やアドオンによるカスタマイズに慣れており、標準機能の制約を受け入れる文化が根付いていないことも、クリーンコアの普及を妨げる要因となっています。
加えて、日本のIT部門やSIer(システムインテグレーター)は、長年にわたりカスタマイズ前提のSAP導入を行ってきたため、クリーンコアへの移行には大きな意識変革が必要になります。
こうした背景から、日本企業のSAPユーザーの間では、クリーンコア戦略の意義は理解しつつも、実際にはカスタマイズを維持しつつ、段階的に標準機能へ移行するというアプローチが現実的とされています。
4.クリーンコア戦略に関しての理想と現実のギャップ
SAPが掲げるクリーンコア戦略は、「SAPの標準機能を最大限活用し、システムをシンプルに保つ」ことにあります。
しかし、現実的には、企業ごとの業務要件や既存のIT資産との整合性を考慮すると、完全なクリーンコアの実現は難しいのが実情です。
理想(SAPの考え方)
・企業はSAPの標準機能を活用し、カスタマイズなしで運用する。
・追加機能はSAP BTPを利用し、本体のコードを改変せずに拡張する。
・システムのアップグレードをスムーズに行い、常に最新の技術を活用する。
現実(企業が直面する課題)
・標準機能だけでは業務要件を満たせず、カスタマイズが必要になるケースが多い。
・SAP BTPを活用するには、新たな開発スキルが求められ、IT部門やSIerの技術習得が追いついていない。
・既存のSAPシステムをそのまま移行する「ブラウンフィールドアプローチ」が主流となり、既存のカスタマイズを維持せざるを得ない状況がある。
このように、クリーンコア戦略は理想的なアプローチではあるものの、日本企業の現場レベルでは完全には適用しづらいのが現状です。
そのため、実際のプロジェクトでは「クリーンコアを意識しつつ、必要最低限のカスタマイズを許容する」というバランスを取ることが求められています。
まとめ
SAPのクリーンコア戦略は、標準機能の活用を重視し、カスタマイズを最小限に抑えることでシステムの柔軟性と拡張性を向上させる方針です。
しかし、日本企業においては、業務要件の複雑さや、長年のカスタマイズ文化が根付いているため、完全なクリーンコアの実現は困難な状況にあります。
このギャップを埋めるためには、クリーンコアのメリットを理解しつつ、現実的な範囲でのカスタマイズを適用する柔軟なアプローチが求められます。
また、SAP BTPを活用した拡張開発の技術習得も、SAP業界で働くエンジニアにとって重要なスキルとなるでしょう。
今後のSAP導入・運用において、いかにクリーンコアを意識しつつ、現場に即したシステム設計を行うかが、成功の鍵となります。